1
枝垂れ桜が雪のように舞っていた。花弁に満ちた枝々が吹き抜ける風に幽かにゆれて哭いていた。数百本の木々に抱かれて、校庭が満艦飾に染められていた。花弁がはらりと肩に落ち、溶けるように流されていく。真っ白い花は視界の奥にどこまでも続き、辺りに甘い匂いを解き放っていく。
ぽつり――と小さな雫が地面に落ちた。制服のスカートのなかから静かに零れて、すうっと吸い込まれるように消えていく。
もう――幾度同じことが繰り返されたのだろう。
かたわらの桜の幹に片手をついて、逆上せた頭で考える。プールに続く校舎の裏の狭い小道は人気がなく、はるか向こうの大通りの雑踏もここまでは届かない。頭上で囀る小鳥の声と、その羽ばたきがしじまのなかに聞こえるきりだ。
わたしはそっと額を拭いた。手の甲に冷たい汗の感触がする。まだ汗ばむ陽気にはわずかに早い季節だったが、それでもわたしは、気付かないうちに汗に濡れていた。額に張りついた前髪を力なく払って、来た道を振り返ってみる。そこに何があるのか判っていた。確かめなくても、それはある。
それでも幽かな希望を込めて振り返らずにはいられない。焦燥の雑じった不安と畏れがわたしの心に渦巻いていた。
丸く――地面に丸く、雫の跡が続いていた。地面に描かれた黒い染みが、もうずっと、わたしの後ろを影のように追っていた。
こんな――こんなこと。
胸の奥が戦慄いた。いくらあの人の命令だろうと、これは、こんなことは――狂っている。
「ぁ……」
太股をまた幽かな感触が伝わっていく。和らかく撫でられて、それがいつまでも尾を引くような――奇妙な感覚。雫が垂れていく。
どうして――こんなことをしているのだろう。
先程まで考えることをやめていた頭を、少しだけ働かせる。うまく考えが纏まらない。考えようとすると、心の想いを言葉に変えようとすると、その気持ちがするりと掌のなかから零れ落ちていく。
世界が白く、ゆれて滲んだ。涙が頬を伝い、顎を伝い、静かに落ちていく。その感触が心を震わせ、無性に淋しく、哀しかった。
枝垂れ桜が音を立てて飛び散っていく。強い春風に巻かれて雪のように舞っていく。
不意に頭上からけたたましい笑い声が響いた。場違いなほど明かるい声が澄んだ空に吸い込まれていく。小鳥たちが驚いて飛び立っていく。見上げると、三階の校舎の窓が開け放たれていた。姿は見えないが、その窓辺で、きっと同級生たちがお喋りに興じているのだろう。
瞳の端に浮かんだ水滴を拭って、きっと顔を上げる。
そう、とにかく歩かなければならない。いつまでもここにいるわけにはいかない。
とにかくあの人のところに行かなくては。
指定された場所まではあとわずかだ。あの角を曲がって、しばらく行けば――
「――。」
そのとき、校舎の影から数人の女生徒が姿を見せた。一瞬、頭のなかが真っ白になる。肩を震わせて立ち竦む。あ――と、なかの一人が可愛らしい声を上げた。
「桔梗センパイ。こんにちは。」
「どうしたんですかー、こんなところで。」
「クッキー美味しかったですぅ。」
「また作って下さいね。」
生徒会の後輩たちだった。能天気な声も姦しく、水飲み鳥のようにぴょこりと頭を下げている。
「えぇ。こんにちわ。」
桜の幹に凭れたまま、わたしは穏やかに微笑みを浮かべた。今の姿を彼女たちに知られるわけにはいかない。無様な姿を見せるわけにはいかない。
「あれ、フルーツ?」
「──ほんとう。いい匂い。」
不意に彼女たちがくんくんと鼻を鳴らした。
心臓が早鐘のように打ち震える。ぽつり、とまたひとつ雫が落ちる。自然な仕草を装って、わたしはそれを静かに掻き消した。
「桔梗センパイ、今度は何ですかぁ。」
彼女たちは無邪気そのものの笑顔でわたしを見上げていた。手慰みに作って持ってきたお菓子がよほど嬉しかったらしい。瞳をきらきらと耀かせている。
その無邪気さが疎ましかった。
いつもは可愛い後輩でも、空っぽの頭で、小鳥のようにふわふわしている彼女たちが、今は憎らしかった。何もかも捨てて叫び出したかった。「うるさい!」と怒鳴りつけてやりたかった。
そんな狂躁的な気持ちを危ういところで抑えつけたのは、わたしの拙い矜持だった。後輩の前でみっともない真似は見せられない。いつも優雅に、気高く、毅然としていなければならない。わたしに抱く幻想を壊してはならない。
わたしは普段通りの声音を作った。
「ごめんなさい。今は、少し急がなければいけないの。」
そうですかー、と残念そうに口を尖らせる彼女たち。「それじゃあ。」とまた頭を下げてかたわらを通り過ぎていく。
わたしの異変には気づいたふうもなく、そればかりか三歩も歩けばわたしのことなど忘れてしまったかのように、さざめく木々のように笑い声を上げていた。
その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、なるべく自然に、できるだけの速足で、わたしは彼女たちがやってきたばかりの校舎の角を曲がって行った。
2
指定された更衣室の扉をくぐり、急いで後ろ手にそれを閉める。春の盛りで穏やかな日々が続いていたが、それでもプールに入るにはまだ季節が早い。更衣室は空だった。
わたしはほっと吐息をついた。ようやく人々の視線から解放された安堵に、わずかに心が落ち着いた。
桔梗、と透き通るような声がした。すみれ色の聞きなれた声だった。誰もいないかと思われた更衣室で、一対の瞳がわたしを見ていた。
永遠に深く沈む、闇色の瞳だった。
「あなた――」
――誰、と初めて出逢ったとき、わたしはそう返した。
咲き乱れる枝垂れ桜を背に立つ少女に、すみれ色の声で名前を呼ばれた。不思議なきらめきを帯びた瞳が、わたしを見ていた。目立つ少女だったので見覚えはあったが、名前は知らなかった。
葵すみれ、と短く言い、それが貴女の名前ねとわたしの気づいたとき、
「ついてきなさい、桔梗。」と彼女は続けた。
そのとき彼女はまだ入学し立てで、それでも彼女を知らない者はなかった。誰よりも深く、何よりも鮮やかに、どこまでも印象深い少女だった。そう。彼女の前では少しばかりの年齢差など何の意味も持たなかった。わたしは素直にしたがった。それが始まりだった。
「よく――来たわね。」
彼女は幽かに微笑んでいた。いつでも、どこでも、誰にでも向けるその微笑みが、わたしは厭いだった。他人に媚びるような、ことさらに女であることを誇張するような、そんな仕草が大厭いだった。
すみれさんは女であり過ぎた。
「今日は来ないかと思ったわ。」
穏やかに揶揄するような声で言う。
嘘だ、と思った。
いつもすみれさんは自信に満ち溢れて、思うようにならないことなんてないというふうに振舞っている。そしてそれは、わたしの知る限りまったくその通りなのだ。
「少し、顔色が悪いのじゃないかしら。」
少しも心配する調子のない声で続ける。それでいて聞くものを魅了する仕草と声音。
堪え切れず顔を背けた。
そこで、また嫌悪が心を駆け抜けた。自分自身に対する失望が、矢となってわたしを責め立てた。
壁に据え付けられた大きな姿見に、肩を震わせながら身をちぢこめる女が映っていた。
これは――わたしじゃない。
わたしであるはずがない。
いつも周囲に気を張って、慌てず、騒がず、取り乱さず、冷静を装って生きてきた。人々の前では、いつも凛とした態度を取ってきた。後輩たちに好かれるまま、敬われるまま、理想の自分という仮面を被り続けてきた。
その仮面こそが、いつか真実の自分となることを願って。
――そんなわたしの姿であるはずがなかった。
鏡のなかの女は身をちぢ込ませ、内気な幼女のようにおどおどと周囲に視線を走らせていた。今にも泣きだしそうな表情は、憐れなほど惨めだった。
わたし……わたしは――
顔は蒼褪め、身体は小刻みに震えていた。それに反発するように心は火照っていた。期待に溢れた昂揚ではなく、絶望を含んだ焦燥に、心は千々に乱れていた。
言わなければ。
今日こそ。
「こんなところにまで桔梗を呼びだしたのはね――」
もうやめて、と。
すみれさんはわたしの逡巡に気がつかない。いいえ、そのふりをしているのだ。あるいは他人の気持ちにはまったく関心がないのかも知れなかった。自分には関係がない――それを知ったところで態度を変えるような彼女でもない。
「今日は特別だからなの。」
――特別?
わたしは不審げに眉を顰めた。それを見てすみれさんが可笑しそうに笑う。追い打ちをかけるように言った。
「特別よ。お客様がいるの。」
一瞬、耳を疑った。すみれさんは揶揄するような微笑みで、いつもながらその表情の下の内心を窺い知ることはできない。
誰かが――いる。
わたしは息を呑んだ。これまではふたりきりで、それで満足していると思っていた。とんだ勘違いだった。
すみれさんが、すぅ――と笑う。
わたしは泣きたくなった。笑いたかったのかも知れない。
つ、と優雅にその腕が動く。奥の扉を指差していた。
「お入りなさい。」
3
そして世界は暗転した。
4
「庚――先生……」
わたしたちの前に姿を見せた女性――それはこの聖蘭学園で現代国語を教える女教師、庚梔子先生だった。不自然なほどおずおずと室内に足を踏み入れて、力なく首を垂れている。
わたしのなかでは、自分の唇から漏れた呟きがいつまでも耳の奥で谺していた。きんきんと反響し、頭が痛い。
どうして――
庚先生は自立した女性の見本のような人だった。いつも地に足をつけて生活し常日頃から凛とした態度を崩さずに、厳しく生徒の指導に当たる。赤いツー・ピースのスーツを颯爽と着こなして、ちょっときつめの表情で教壇に立つ先生。とても恰好良かった。わたしが教師になろうなどというささやかな夢を持つようになったのも、この人がいたからだ。わたしのひそやかな憧憬だった。
その女性が、今、目の前にいる。それも、どう見てもわたしたちの背徳的な行為を咎めようとしてではなかった。
いつもは厳しい表情は弱気に歪み、わたしたちを叱りつけ、ときに励ましてくれるその姿も、今はない。赤いツー・ピースも何だか不似合いで、伏せた顔の前に垂れかかる長い髪で、表情は見えなかった。
これは――なに?
ありえないことだった。
これは――夢……
あってはならないことだった。
誰よりも知られたくない相手に、秘密を知られようとしている。誰よりも知られたくない相手に、恥ずべき行為を見られようとしている。いや、それよりも、彼女がわたしの秘密を知るときは、それはわたしたちの行為を罰するときでなければならないはずだった。
「うふふ――」
すみれさんが笑う。少女とはとても思えないほど、妖艶に唇を歪ませて笑う。
「さぁ、桔梗。梔子に自己紹介なさい。」
その声がわたしの体を貫いていく。
梔子、梔子、梔子……
――なんてこと。
呼び捨てにされても、わたしなら、いい。でも、先生を。よりにもよって庚先生を。
先生にだけは、すみれさんの魔力も通用しないと思っていた。勝手に思い込んでいた。でも、違う。違った。
今、先生の姿は、すみれさんの前にあまりにも小さかった。
「聞こえなかったの。自己紹介をなさいと言ったの。」
すみれさんが重ねて言う。
自己……紹介――?
幽かに視線を上げ、わたしは目で問い返した。先生とわたしとはいつも教室で顔を合わせており、いまさら自己紹介する必要はない。それを知らないすみれさんでもない。
お莫迦さんね――と彼女はまた笑った。今度はころころと子供のような笑いだった。
「とっても簡単なことじゃないの。ねぇ、桔梗。ただほんの少し、スカートを持ち上げればすむことだわ。」
あぁ――
総てを悟った。
彼女は知っているのだ。誰にも伝えたことのない、わたしのささやかな想いを。胸に秘めた小さな希みを。
憬れの教師の前で、わたしの今の醜態を晒せと言うのだ。耐え難い羞恥と苦痛。それを彼女は愉しんでいる。
それでもわたしは、彼女に逆らえなかった。
わたしを見上げる彼女の瞳。大和髪に切り揃えた黒髪の下で、その静かで大粒の双眸がどこまでも深く。
わたしを捕らえて。
少しずつわたしの心を蝕んでいく。
――その人外のものめいた瞳が、心底怖ろしかった。
きゅっと唇を結ぶと、制服のスカートの裾を小さくつまんだ。震える手で、それでも確かにそろそろと持ち上げていく。膝から――太股、そして――。
時間だけがゆっくりと流れていく。
先生が顔を上げ、初めてわたしの方を見た。伏し目がちだった瞳が大きく見開かれていく。頬が羞恥に燃え上がる。死にたいほど、恥ずかしかった。
狭い更衣室の薄暗い電燈の下――あらわになったわたしの陰唇から、剥き身のバナナがにょっきりと生えていた。
5
ホームルームも終わり、生徒たちがさざめきながらそれぞれの部活動へと散っていく放課後のまだ早い時間。わたしは用を足そうと手洗いへと足を運んだ。校内は晴れやかな雰囲気に満ちていた。安堵と開放感に包まれていた。それは厳格な教師の前で真面目な生徒を演じなければならない時間から、ただの少女に戻れる時間だ。学校が学校ではなく、生活の一場面に戻る瞬間。黄昏のようにふたつの時間の溶け合う瞬間だった。
その彼女たちの軽やかな時間のなかで、わたしだけが足取りが重い。また今日も。最終下校時刻の過ぎるまで、煩悶として過ごさなければならない。生徒会も今日はない。またいつものように不安を押し殺し、図書室でひたすら読書に没頭するのだ。
形だけの生徒会長。
それがわたしの肩書きだ。副会長のすみれさんが生徒会の実権を握っているのは誰でも知っている。ただわたしだけが、すみれさんの独裁に歯止めをかけられると期待されていた。理事長の娘だという少女も、すみれさんに心酔していた。
わたしは彼女の我儘や荒唐無稽な案をひとつひとつ槍玉に上げ、理論武装でそれらを排していく。生徒会は一見二派に分かれ、微妙な均衡で釣り合いが取れているように見える。
わたしはそれを完璧に演じていたし、すみれさん自身もそれを望んでいた。それまでのわたしのイメージは崩さずに、その方がすみれさんには都合が好いらしかった。
いわばわたしは、彼女の傀儡だった。
息を潜めて、そっと手洗いのなかを覗く。室内には誰もいない。個室も総て空――なぜだか幽かにほっとした。手近な個室に入ろうとして、しかし、背後に人の気配がした。
不思議な笑みを浮かべて、すみれさんが立っていた。
またいつもの――
わたしは諦めの表情を浮かべた。
またいつもの場所の指定か――と。
彼女からは逃げられない。いつも見られて、気がつくとそばにいる。すみれさんは怖ろしい。先に用を足してしまおうと個室に入る。
ショーツを脱ぎなさい、と彼女は言った。わたしに続いて、個室のなかに身を滑り込ませていた。こんな処で、とも思ったが、用を足さないわけにもいかない。もうわたしはずいぶんがまんしていたのだ。素直に下着を下ろした。そのまま和式の便器に屈もうとするのを制して、彼女の方がわたしの前へ屈み込む。後ろ手に隠し持っていたものを胸の前に持ち出して、下から見上げてにっこりと微笑んだ。
「わたしはショーツを脱ぎなさいと言ったのよ。」
それは一本のバナナだった。茫然とするわたしの前でその皮を剥くと、わたしがアッと思って抵抗する間もなく、スカートを捲り上げて、無防備なわたしの陰唇へとそれを捻じ込んだ。
「あっ……」
ダメ、と思ったときには遅かった。すみれさんの手が、顔が、制服が、見る見るうちに濡れていく。まだ青いバナナは固く、受け入れ準備のできていなかったわたしは、その肉襞を擦り上げる痛みとショックに、汚水を漏らしてしまったのだ。
すみれさんは避けようともせず、一身にそれを浴びていた。
「あとでプール脇の更衣室まで、このままの恰好で来なさい。いいこと、それまでは絶対に抜いてはだめよ。」
それだけ言うと、彼女はさっさとその場を立ち去り、あとにはわたしだけが残された。立ち去り際の彼女の悪戯っぽい言葉が脳裏に蘇る。
――そうそう、ひとつ忠告しておいてあげるわ。そのバナナね、しっかり力を入れてないと落ちちゃうし、あんまり力を入れ過ぎても、真ん中で千切れて、やっぱり落ちちゃうわよ――
絶望が心を支配する。ここからプール脇の更衣室までは校内の端から端までを横切らなくてはならず、いつもなら気にもならない道のりが、今は絶望的に遠かった。
「無理よ……そんなの。」
こんな莫迦なことには付き合っていられない。すぐに引き抜いてしまおうとも考えた。
しかし。
――いいこと、それまでは絶対に抜いてはだめよ。
顔とセーラー服とをわたしの汚水で汚したままそう言ったときの彼女の悽絶な微笑みに、結局わたしは、自らの秘部におさめられた異物を取り除くことはできなかった。
それから、どのくらいそうしていたのだろう。気がつくと、もう陽も暮れて、窓から覗く生徒たちの姿もまばらになっていた。
そしてわたしは、バナナを落とさずに、でも千切らずに、懸命に力を加減しながら、そろそろと校舎を横切ってきたのだ。拭くこともできなかった汚水にまみれたバナナから、途中、いくつもの水滴を滴らせながら。落ちる水滴をせめてショーツで防ごうにも、それも叶わない。わたしの白い無地のショーツは取り上げられて、今は彼女のスカートのポケットに仕舞われているのだから。
6
彼女のセーラー服と白いスカーフには、黄色い染みが残っていた。
あれは――あれは……
そう。わたしのおしっこなのだろう。
あのあとすぐに洗えば落ちたのだろうが、彼女はわざとそうしなかったのだ。多分、わたしに見せつけるために。
悔しさに涙が滲んだ。それでもわたしは泣いてはダメだと、しゃくりあげそうになるのを潤んだ瞳をまばたきしながら我慢した。これ以上、彼女を愉しませることはない。喜ばせることはない。わたしは、わたしのその行為そのものが彼女をいっそう愉悦の深みへと誘っているのだなどとは夢にも思わず、ただ唇を噛んで耐えていた。
ぽたり――と水滴が垂れて、またひとつリノリウムの床を丸く穢した。
「今度は梔子の番よ。」
すみれさんに突然鉾先を向けられて、庚先生の細い肩がびくっと震えた。
「桔梗にばかり恥ずかしい思いをさせるのは不公平でしょう? 教師なら、生徒と一緒に恥ずかしい思いをしてみなくてはいけないわ。」
すみれさんの奇妙な論理にも、先生は何も言葉を返さない。自分より七つも年下の、それも教え子だと言うのに、やはり思いはわたしと同じだったらしい。すみれさんには逆らえない。
「四つん這いになりなさい。」
すみれさんは静かに命令した。
先生は諦めの表情で、それでもゆっくりと身を屈める。言いなりだった。
先生――
せんせい……!
胸が締めつけられる。きりきりと胸が壊れそうに痛い。穢された、と思った。これまでにも散々に嬲られて、ひどくてつらいことを強要されてきた。いくつもの誇りを踏み躙られてきた。それでも、心までは支配されてはいないと思っていた。
思っていたのに――
ついに、先生は四つん這いになった。両手と両膝とを床につき、お尻を高く上げ、前についた両腕を軽く屈めている。ぶざまだった。惨めだった。そのままわたしを見上げるように顔を向けてくる。そして……そして……
べろりと舌を出した。
わんわんよわんわん、とすみれさんは無邪気に喜んでいる。
わたしは先生から顔を背けた。もう逃げ出したかった。耐えられなかった。こんな辱めはない。こんな姿の庚先生は見たくない。もっと凛として、授業中におしゃべりしているわたしたちを厳しい声で叱って、でもときに少しだけやさしい笑顔でわたしたちに接してくれる先生でなければ。
目の前にいる女性は、総てを諦めた笑みで強者に屈し、ただ主人の言うことに素直に従うだけのか弱い女にしか見えなかった。
――どきりとした。
先程から何とはなしに抱いていた違和感の正体に、ようやく気がついたのだ。顔を背ける間際、先生の大きく開いたスーツの胸元から――豊かな乳房がはっきりと見えていた。赤いスーツの下に、先生は何も着ていなかったのだ。ブラウスを着ていなかった。下着も着けていなかった。素肌にスーツを纏っていた。
「梔子。桔梗さんのものを、咥えてあげなさい。」
先生とわたしは同時に顔を見合わせた。その意味するところを理解して、顔がいっそう蒼褪めた。先生が一歩、四肢を踏み出した。
「いや……来ないで……」
どん、と背中に扉が当たる。先生の表情は奇妙だ。吐息がわずかに荒かった。スーツの下ではだかの乳房がゆれている。すみれさんが笑っている。黄色い染みが目に痛い。
――だめ。
四つん這いの先生は、進むたびにお尻を振っている。
――こんなのダメ。
ぴっちりしたスーツは先生の細い腰を優雅に包んで、そのくびれまではっきりと浮きあがらせていた。下着の線は――見えなかった。桃のような先生のお尻が、もう目の前に来ていた。
ふわり、と風の泳ぐ音がして、すみれさんがスカートを床に落とした。
白い素足があらわになる。細い太股から下腹部までをきれいな弧が優雅に描き、そして正面に花を象ったワンポイントのあるだけの飾り気のないすみれ色の下着。なめらかな肌。陶磁人形のようだった。
「厭……」
こんなにも気高くて――
「厭ぁ……」
こんなにもすみれ色が似合い――
「みんなおかしいの……」
こんなにもすみれの花言葉の似合わない少女はいなかった。
「先生も、すみれさんも、わたしも……」
謙譲――
「こんなこと、本当には望んでいない……!」
叫びが口をついて漏れていた。先生が動きを止めた。これまでにないほどはっきりした瞳で、わたしを見つめていた。
「――桔梗。」
すみれさんが静かに口を開く。途端に狂躁的な気持ちが霧散する。はっとして口を噤んだ。すみれさんがわたしを見ている。
「私のものになりなさい。私に従い続けなさい。」
哀願するように手を伸ばして、そっとわたしの髪を梳く。
「もう――抗うのはやめて。」
今まで聞いたことのない、それはすみれさんの深く透き通るような声だった。
「あなただって、そういうふうに生きていたいんでしょう? そのほうが楽だって知っていて、そう生きてみたいって望みもあるんでしょう?」
――違う、違う!
心の内で必死に叫ぶ。挫けそうな心に防壁を張る。
「ちがい……ます……」
俯いて、でも、口から出た言葉は哀しいほど弱々しかった。他人前では決して弱みを見せず、虚勢を張って生きてきた自分のそれとは、とても思えないほど小さな呟き。わたしの厭いな、他人に迎合し、男の顔色を窺い、周囲に媚びて生きている女たちの、それはそのものだった。
哀しくて、口惜しくて、涙が溢れた。
「哀しいことを言わないで。」
彼女の言葉はどこまでもやさしい。
「私には、あなたが必要なのよ。」
それでも。それでも!
負けるわけにはいかない。頼るわけにはいかない。これまでの自分総てを、否定するわけにはいかない。
――それでは立ち行かない。
「ねぇ、桔梗。」
すみれさんがそっと囁く。
「これは、なに?」
びくっと肩を震わせる。いやいやをするように頭を左右に振り払う。
すみれさんの華奢な指は、ひどく鼻につく液体にねっとりと蔽われていた。
陰唇を――もう和らかく熟れた果実のように充血しているわたしのあそこを、すみれさんは信じられないほど繊細に撫でていた。認めたくはなかったが、そこにバナナが、ぬめりをあげて電燈の光を照り返していた。
先生が一歩、また一歩と近づいてくるたびに、いつか下腹部は熱く疼いていた。ずっと、もうずっと、はしたない体液を垂れ流し続けていた。
「心は厭でも体は素直? 違うわね。」
ぞっとするほど冷たい声ですみれさんは言い放った。男の人は――と続ける。
「視覚的、肉体的な刺激ですぐに反応するわ。でも、女の子は違う。」
――ちが、う……?
「女の子の肉体は、男性のそれ以上に、精神に忠実よ。心に従う肉体を持っているの。」
だから――と蠱惑的な瞳でわたしを見上げて、紅い唇で微笑んだ。
「これは、あなたの希みなの。」
そのとき、四つん這いのまま犬のように這い寄ってきた先生が、わたしの陰唇から生えたバナナを咥え込んだ。
ルージュの引かれた唇の奥で、ぬめったバナナが真っ赤な舌に淫猥な糸を引いたとき、わたしのなかで何かが壊れた。
7
――気がつくと、天井が見えていた。
冷たい床にこうして横たわっていると、あれは淫猥なわたしの抑圧された心が視せた白昼夢ではなかったのかと思わせる。在り得ない夢の塊。
だが、行為の跡は生々しい。寒さに震えるわたしの体には、乾いた体液が無数にこびりつき、口のなかには苦いものが残っている。
更衣室には、わたしの厭いな女の匂いが満ちていた。
すみれさんに弄ばれ、すみれさんに命令されるがままに、わたしは喜んで庚先生の肌に舌を這わせた。ふたりの女の汗と唾液と汚水と愛液とをこの体に受け、何の抵抗もなく、淫らに嬌悦の声を発していた。太腿には、流れ出た愛液の跡が幾本もすじを引いている。かたわらには、先生の食べ残したバナナのかけらが転がっている。
幾度も達しては、溢れる体液を憬れの人の豊満な胸になすりつけ、乳頭を唾液で塗り固めた。どろどろになった肌の温もりが心地好かった。その人もとろりとした目でわたしの青い乳房と乳頭を口に含んで、舌で転がし、歯で噛んだ。固く尖った乳頭を、充血した陰核を、互いに腰を振って擦りつけ、喜悦のあえぎを漏らし続けた。
わたし自身も、わたしの厭いな女の匂いを噎せるほど発していたのだろう。
いっそうの寒さに、両手で肩を抱いた。ちっとも温かくない。それでも服を着る気にはなれなかった。
窓の外には、雪が降っていた。
桜吹雪のなかを、冷たい雪が舞っていた。
頭のどこかが麻痺しているようだった。もうこのままでいい――と繰り返していた。
……ゆっくりと──体を起こす。瞳に垂れかかった前髪を払う。
月明かりに浮かんで、桜が雪のように咲いていた。雪が桜のように舞っていた。視界のなかで、世界はほのかに銀色で、ほのかに桜色に染まっていた。
桜の咲く頃に降る雪は、東京では二五年振りだと、そののちに知った。
* * *
先生とわたしとは、その後もまた以前と変わることなく接している。あのときのことを口にすることはないし、ときおりふっ――と二人だけの間に特別な雰囲気の交わることもない。
まるで同じ日常の繰り返し。まるで同じ時間の流れ。
わたしは今も先生に憧憬を抱いている。あの日の先生に幻滅することはなかったし、もしそうなら、それはわたし自身に向けられるべきものなのだろう。
何も変わらないわたしたちの生活。関係。
わたし自身も自分が変わったとは思わないし、友人から変わったと言われたことも、少なくとも今のところは、ない。
わたしは、女になったのだろうか。
そう問うと、すみれさんは艶然と微笑んだ。
――莫迦ね、あなた。女の子は生まれたときから、ずっと女なのよ。
そんなすみれさんが、今は少し、羨ましい。
――――了
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